「助けて」と言えなかった22年。完璧な母親を卒業した私の物語
こんにちわ⭐ゆちぃママです⭐
「母親なんだから、私がしっかりしなきゃ」
「他のママは当たり前にできているのに、どうして私は……」
22年前、17歳で初めての母になったあの日から。
私はずっと、自分を完璧という名の檻に閉じ込めて生きてきました・・。
4人の子供たちの母として、そして現在、5人目を授かった妊婦として。
双極性障害という病を抱えながら
ワンオペ育児・発達障害を持つ子供たちへの療育・終わりのない家事……。
クローゼットで声を殺して泣き、限界まで自分を削り続けた私を救ってくれたのは、意外なことに白旗を上げることでした。
この記事では、私が完璧な母親という鎧を脱ぎ捨て、
22年かかってようやく助けて!と言えるようになるまでの歩みを綴りました。
今、一人で歯を食いしばって頑張っているあなたへ
この記事が、あなたの心を少しだけ軽くするきっかけになれば幸いですっ✨
22歳差5人ママの私が断言!!
【育児はもっと不真面目でいい】
17歳で未婚の母になり、誰にも頼れずボロボロになったあの頃の私は、負けず嫌い。
若かった事も重なって【立派な母親に見られたい!】と必死で、完璧を目指しては自分を追い詰めていました・・・
17歳で母になり育児の絶望と、5人目を授かった今の幸せ。
この二つを繋いでくれたのは、【完璧な母親という虚像を捨て去る決意】でした。
でも、20年経った今、確信していることがあります!
それは、ママが自分を削ってまで目指す【完璧】に、子供を幸せにする力はないっ!!ということです。
若くして母になったからこそ、世間に【やっぱり若いから…】と言われたくなくて、私は自分を厳しく律してきました。
でも、その無理は育児ノイローゼという形で爆発し、一番大切なわが子を可愛いと思えなくなるという、人生最大の失敗を経験しました・・・
だからこそ、いま育児に悩むあなたに伝えたいっ!!
【立派な親】でいることより、【笑っているママ】でいることの方が100倍価値がありますっ!
22歳差という歳の差・4回目の帝王切開・発達障害の療育
次々に現れる壁を乗り越えるために必要なのは
努力ではなく【適当でいいや】と言える心の余白です!
私のサバイバル術は、そんな【完璧を捨て諦める勇気】から始まっています!
17歳で未婚の母に。実家なし・孤立育児から始まった私の絶望
私は3歳になる前に両親と離れ、祖父母に育てられました。行事のたびに両親が来る同級生がキラキラ輝いて見え、思わず口に出てしまったあの日・・・

「なんで私には、お父さんもお母さんもいないの?」
聞いた瞬間の、祖父のあの困った顔。いまだに忘れられません・・・
子供ながらに「これは聞いてはいけないことなんだ」と悟り、家を追い出されないよう、ひたすら【理想のいい子】を演じてきました。
幼稚園から中学まで続いた【捨てられた子】といういじめ。
それでも祖父母を悲しませたくなくて、家では笑顔を絶やしませんでした。
そんな私を誰より愛してくれたのは、人格者だった祖父でした
しかし、私が14歳の時、唯一の心の支えだった祖父が脳卒中で倒れ、寝たきりになりました・・。
その時、親戚や実の父、そして祖母までもが私を責めたのです。
「あんたのせいで、おじいちゃんは倒れたんだよ」
14歳の私に浴びせられた親戚たちの言葉。
それが、私の【孤独な戦い】の始まりでした。

「お前を育てるストレスのせいで、おじいちゃんは倒れたんだよ!」
「私は生まれてこないほうがよかったのかな・・」 自分の居場所がどこにもない絶望。
16歳でグレて家に帰らなくなったのは、必死に演じてきた【いい子】が限界を迎えたからでした。
そんな中での妊娠。その時、私が最初に感じたのは、恐怖ではなく強烈な歓喜でした。

「やっと、私の本当の家族ができる。もう一人じゃない!」
未婚でもいい!
私がこの子を幸せにする。この子は私がいれば幸せなんだ!
当時の私は、そう信じて疑いませんでした。
若さゆえの思い込み・・・
でも、その【誰にも頼らず自分だけで守る】という強い決意こそが
私をさらなる孤立へと追い込み、
周りが見えない・頼り方が分からない
【サバイバル育児】という名の闇の入口だったのです。
20年前の私が流した涙。【完璧な母親】を目指して壊れた日(失敗談)
私が目指していた【完璧な母親】の正体。
それは、幼少期に自分が得られなかった
【理想の家族】を意地でも作り直そうとする、必死の執念でした。
18歳で初めて借りた1DKの家。
【ここから私の家族が始まるんだ】
という希望に溢れていましたが、現実は甘くありませんでした。
カーテンも冷蔵庫も洗濯機もない。
あるのは布団一式と、わずかな着替えとミルクだけ。
今の私なら「まずは生活を整えて!」と叱れますが、当時の私は世間知らずの箱入り娘。「働いて少しずつ揃えればいい」という短絡的な考えが、
自分をさらなる地獄へ追い込むことになるとは、夢にも思っていませんでした。
【若いから】という偏見との戦い、そして孤独なサバイバル
長男の成長とともに
私の生活は【出口のない地獄の迷路】へと変わっていきました。
夜泣き・イヤイヤ期・そして保育園での孤立。
頼れる親も友人もいない中、周囲のママたちの言葉が、鋭い刃となって私に突き刺さりました。

「やっぱり若いから、しつけができていないのね」
「母親がちゃんと愛情を注いでいないから、あんなに暴れるのよ」
【負けてたまるか!】
そう意地になった私は、昼は派遣、夜は無認可保育園に預けてバイトをするという狂気的な生活に突入しました。
洗濯機がないからコインランドリーへ、掃除機がないから雑巾で床を拭く・・
睡眠不足で頭は回らず、心は少しずつ、でも確実に壊れていきました・・・
崩壊の足音:過労による入院と、父からの罵声
ついに体力が限界を迎え、私は過労で倒れて入院しました。そんな私に、病室で父が放ったのは追い打ちをかけるような言葉でした。

「だから無理やって言ったんや!お前は子供に愛情がない!愛情があれば子供はちゃんと育つんや!ちゃんとせい!」
深い闇の中に、さらに突き落とされた気分でした。
「愛情がない」?これほどまでに必死に、身を削って育てているのに?
看護師さんが父を止めてくれましたが、私の心にはもう、何の感情も残っていませんでした。
【私から何も奪わないで!】児童相談所からの逃走
退院後、児童相談所から「一時的に施設に預けた方がいい」と提案されました。
今の私なら、それが公的な「助け」だとわかります。
でも、当時の私には【やっと手に入れた家族を奪う敵】にしか見えませんでした。

「なんで?私こんなに頑張ってるのに、なんで私から奪おうとするの?やめて!!私からもう何も奪わないで!!」
怒りに任せて相談員に怒鳴り散らし、息子を抱きしめて逃げるように帰宅しました。
家に着き、声を張り上げて泣きじゃくる私に、
2歳の息子が小さな手で私の背中を「トントン」と慰めてくれた感覚。
「ごめんね……ちゃんとできないママで、ごめんなさい……」
そこから逃げるように引っ越しをしましたが、蟻地獄からは抜け出せませんでした。
長男の奇行はエスカレートし、家賃を細かくちぎってばら撒き、5階から物を投げ捨て、
押し入れを液体で真っ黒に染め上げる……。
私は放心状態のまま、現実か夢かもわからない世界で立ち尽くしていました。
最後の一撃。おじいちゃんの死と【疫病神】の烙印
そんな折、唯一の味方だった祖父が余命宣告を受けました。
2週間、不眠不休で付き添い、最期の瞬間。
仕事へ行こうとした私を呼び止めるように祖父が上げた大声。
それが、祖父との最後でした・・・
お葬式の席で、親戚たちは私を囲んで責め立てました。

「お前なんて生まれなければよかった」
「お前は本当に疫病神だ!お前のせいで祖父は死んだんだ!」
ボロボロの心で家に帰り、また長男との二人暮らしが始まり、ある日保育園から一本の電話が入りました。
「長男くんが、お友達を階段から突き落としました」
携帯を握ったまま、私は何の感情もなくなってしまいました。
悲しい・苦しい・申し訳ない。
そんな感情さえ、もう湧いてこない。
これが、私の心が完全に壊れた日でした。
息子との【5年間の離別】それでも手放せなかった完璧への執着
【短期治療施設】への入所。あの日、私は母親であることを諦めた
頼れる実家もなく、経済的な援助もない。17歳で【たった一人の親】になった私には、逃げ場がどこにもありませんでした・・・
長男の暴力や問題行動がエスカレートしても、相談できる相手はおらず
私自身が【完璧な母】という檻の中に自分を閉じ込めていたのです。
あの日、長男が事件を起こした時、私の心はポキリと折れました。
その解決策として提示されたのが、児童相談所を通じた
【短期治療施設(現在は児童心理治療施設)】への入所でした。
【親子分離】という唯一の救いと、最大の絶望
当時の私にとって、その選択は【母親失格】の烙印を押されるような、耐え難い苦しみでした。
- 短期治療施設とは: 家庭での養育が困難な子や、心理的なケアが必要な子が、専門家のサポートを受けながら生活する場所。
- 親子分離の目的: 親子の共依存や、歪んでしまった【しつけの連鎖】を一度断ち切るため。
施設へ預ける日。息子は泣き叫ぶわけでもなく、静かに施設の中へと消えていきました。
その小さな背中を、今でもたまに夢に見ます・・
「世間からは育児放棄だと思われるかもしれない」
「親戚からは情けないと指をさされるかもしれない」
そんな恐怖に震えながら、私は息子と離れる契約書にサインをしました。
静寂が痛い、空っぽになった自宅
息子がいなくなり、空っぽになった自宅。その静寂は、今でも耳の奥に残っています。
ふと、子供が使っていたものが目に入った瞬間。 糸が切れたように脱力し、玄関で膝をついて泣き崩れました。あの日、あの瞬間の絶望感は一生忘れられません・・・

私は母親としての責任を諦めたんだ。私は、母親失格だ……!
「私が悪いから、この子がこうなったんだ」という自責の念は、施設に預けたからといって消えることはありませんでした。
むしろ、離れている5年の間に
【次は絶対に失敗できない】
【今度こそ完璧に育て直さなきゃ】
という思いが膨らみ、私の完璧主義はさらに加速していったのです・・・
この時の挫折感が、のちの多子育児において、
さらに自分を追い詰める【育児ノイローゼ】の種になるとは、当時の私はまだ気づいていませんでした。
小学6年生での再会。再び始まった【完璧な母親】という呪縛
5年という長い月日を経て、ようやく長男との生活が再スタートしました。
「今度こそ、普通の幸せを掴み取るんだ」
そう意気込んでいた私を待っていたのは、
穏やかな日々ではなく、以前よりもさらに強固になった【完璧主義の檻】でした。
失った5年間を取り戻さなきゃ
小学6年生になった長男は、施設での生活を経て落ち着きを取り戻していました。
しかし、私の心には常に【空白の5年間】への罪悪感がこびりついていたのです。
- 「私が離れていたせいで、この子の成長を妨げてしまった」
- 「これからは、人一倍正しく、立派に育てなければならない」
そんな焦燥感から、私は長男に対して【普通】であることを強く、過剰に求めるようになりました。
【監視】と【過保護】が生んだ、ピリピリした二人暮らし
宿題・身の回りのこと・言葉遣い
少しでも【普通の子】から逸脱しそうになると、私はパニックに近い恐怖を感じました。
「またあの日(階段の事件)のようなことが起きたらどうしよう」
その恐怖が、私を【厳しいしつけ・子供の監視・過保護】へと駆り立てました。
本当は、ただ長男を信じて一緒に笑ってご飯を食べるだけでよかった。
「今日、学校で何があったの?」と、ただ話を聞いてあげるだけでよかった。
けれど当時の私には、それが一番難しいことでした。
息子を愛しているからこそ、二度と失敗したくないからこそ、
理想の型にハメ込もうとして、二人の間の空気は常にピリピリと張り詰めていたのです。
完璧の先にあったのは【孤独】と、息子の叫び
「母さん、うざすぎ。ダルイ。ちゃんと見てくれるのはわかるけど、ほっといて!」
思春期を迎えた長男から投げつけられたその言葉は、私の胸に深く突き刺さりました。
良かれと思ってやっている【監視】も【しつけ】も、彼にとってはただの苦痛でしかなかったのです。
長男の顔色を伺うような視線を感じるたび、私は自分の未熟さを突きつけられるようでした。
この【絶対に失敗できない】という強迫観念は
その後の再婚、そして三姉妹の誕生を経て、
私を【育児ノイローゼ】へと引きずり込んでいく決定的な引き金となってしまったのです。
再婚、【長男を一人にしない】ための決意と、押し寄せる特性の波
17歳差の兄妹。実家の援助がない私が見つけた【家族の形】
長男が高校1年生の時、私は縁あって再婚しました。
新しい生活が始まる中で、私には心に決めていたことがありました。
それは、【兄妹をたくさん作ること】です。
孤独だった私の幼少期、そして援助のない現実
私自身、実家からの援助が一切なく、孤独を感じながら育ってきました。
一人で戦うことの心細さ・逃げ場のない苦しさを誰よりも知っています。
だからこそ、私が死んだあと、長男がこの広い世界でたった一人になってしまうことだけは、どうしても避けたかったのです。

下に兄妹がいれば、いつか私が守れなくなった時、彼を支えてくれるチームができるはず。
【長男を独りにさせない】という強い想いから、私は兄妹の絆を何よりも大切に考え、賑やかな家庭を作るために尽力しました。
そうして授かったのが、長男と17歳差、そして22歳差となる妹たちでした。
【何かおかしい】…確信に変わった違和感と、母としての限界
しかし、幸せな家庭を築こうとする私たちの前に、新たな試練が訪れます。
次女を妊娠中のこと、当時2歳11ヶ月だった長女に対し、
私はずっと拭いきれない【違和感】を抱えていました。
- 極端な偏食: 3歳直前なのに、特定の鮭ほぐしを混ぜた白米しか食べない。
- 異常な睡眠サイクル: 生まれてからずっと、30分寝たら半日は活動している。
- 発語がない: こちらの言うことは理解しているのに「ママ・パパ」も出ない。
- 強いこだわり: 特定の服しか着ない、人への執着がひどい。
「私の育て方が悪いの?」と自分を責めながら、たまたま風邪で訪れた小児科で相談したところ、発達検査を勧められました。
3歳で【1歳レベル】下された診断と、再び加速する完璧主義
児童相談所で受けた長女の発達検査の結果は、3歳時点で【1歳レベル】
【発達障害・自閉症スペクトラムの可能性が高い】と告げられました。
その時、初めて【療育(児童発達支援)】の存在を知ります。
「今の段階で、児発(児童発達支援)で色々と教えてもらい援助を受ければ、将来の不安がなくなるだけでなく、『普通に生活できる子』になれる可能性もありますよ」
その言葉は、当時の私にとって唯一の光でした。
「今私が頑張らなければ、また長男の時のように失敗してしまう」
あの頃の恐怖がフラッシュバックし、私は次女を妊娠中の身で、わらにすがる思いで療育先を探し回ることに必死になりました。
「早くから児発を使えば、普通の子に追いつけるかもしれない。私がこの子を普通に育ててあげなきゃ」
そう自分を鼓舞するたび、逃げ場のないプレッシャーが私を追い込んでいきました。
次女の【グレーゾーン】発覚と、止まらない驚愕
長女の言葉が遅すぎたせいか、私の【普通】の基準はすでに狂っていたのかもしれません。次女に関しては、言葉が遅いとすら思っていませんでした。
しかし、三女を妊娠中に【念のため】と軽い気持ちで受けた発達検査。そこで突きつけられたのは、次女の【グレーゾーン】診断でした。
驚愕しましたが、次女の結果は1歳時点で8ヶ月程度と、長女に比べれば軽度。
【長女と同じ療育に通わせればなんとかなる】と、
ショックを飲み込み、無理やり前を向きました。
三女の難聴疑い、そして3人目の【発達障害】
最後の一押しは、三女の診断でした。1歳児健診で【難聴の疑い】を指摘され、総合病院を受診。それをきっかけに、1歳から療育に通い始めました。
成長とともに聴力に問題がなくなったと安心したのも束の間
療育先の先生から「三女さんも、一度発達検査をしたほうがいい」と勧められたのです。
結果は、2歳時点で【1歳レベル】三女の発達障害も判明しました。
実家の援助がない私にとって、頼れるのは自分だけ。
「私がこの子たちの未来を全部背負わなきゃ」
「私が人一倍頑張って、普通の子に追いつかせなきゃ」
3人の特性、そして【長男を独りにさせない】という重圧。逃げ場のない孤独の中で、私の【完璧主義】のアクセルは、ついに臨界点を超えて踏み込まれていきました。
第5子妊娠、そして【育児ノイローゼ】ついに折れた22年間の糸
3人の娘の特性、長男の反抗期、そして第5子の妊娠。
私の【完璧主義】の糸は、ある日音を立てて切れました。
家族のためにこれほど頑張ってきたのに、暗闇の中で一歩も動けなくなった当時の絶望感を綴ります。
5人で一つの【チーム】名前に込めた最後の願い
私には、子供たちに授けた特別な想いがありました。子供たちの名前はすべて、五行陰陽になぞらえてつけています。
朱雀・青龍・玄武・白虎
そして今回宿った第5子は、中央を司る【麒麟】 この5人が揃うことで、
一生助け合い、仲良く幸せに生きていける最強の【チーム】になってほしい。
私が死んで長男が一人になっても、この絆があれば大丈夫……。
第5子の妊娠は、私にとってまさに完成を意味する、待ち望んだ瞬間でもありました。
「おめでとう」と言えない・・どす黒い感情との葛藤
しかし、その理想とは裏腹に、現実の私は限界を迎えていました。
三姉妹全員に特性がある理由を療育の先生に尋ねた時、
「医学的な確証はないが、遺伝の可能性もある」という言葉が返ってきたからです。
その瞬間、麒麟を授かった喜びは、一転して激しい恐怖へと変わりました。
「また発達障害があったら? 正直、これ以上私に何ができるの?」
「高齢出産、4回目の帝王切開。私の体はもつの?」
頭の中を駆け巡るのは、自分でも嫌悪するほどどす黒くて、汚い不安ばかり。5人を揃えてあげたいという願いと、もうこれ以上は無理だという悲鳴。
理想と現実の狭間で、私の心はかき乱されました。
崩壊した心身。子供の名前すら思い出せなくなった日
限界を超えた体は、ついに悲鳴を上げ始めました。
- 幻聴と不眠: 子供が寝静まっているのに、泣きわめく声がずっと耳の奥で響いている。
- 健忘: 自分の年齢が分からなくなり、あんなに想いを込めてつけたはずの子供たちの名前が一瞬出てこなくなる。
- 逃避: 子供の顔が見たくなくて、真っ暗なクローゼットの中に一人でこもる。
- 身体症状: 激しいめまい、手の震え、食べても吐く(または過食)、常に続く原因不明の発熱。
三姉妹で合計5つの事業所を利用し、特性に合わせたスケジュール調整や園との連携をすべて一人でこなす日々。
毎月2週間をかけて行うそのパズルのような調整が、私の脳を確実に破壊していました。
区役所の床で崩れ落ちた時、差し伸べられた手
ある日、療育の更新手続きのために訪れた区役所で、私は激しいめまいに襲われ、その場に座り込んでしまいました。
そこで声をかけてくれたのが、家庭相談員の方でした。
そこで初めて知った相談支援員という存在。
「今の体調なら、一度心療内科へ行ってみませんか?」
その言葉に背中を押され、体の不調さえ治ればいいと軽い気持ちで受診した病院で、医師は私の話を聞き終えると、深くため息をついてこう言いました・・・
「もう、限界をとうに超えていますよ。脳も体も、休ませてくれと悲鳴を上げている状態です。……診断名は、育児ノイローゼ、そして双極性障害。これまで、どれほど一人で背負い込んできたんですか。もう十分すぎるほど頑張りましたよ」
「話を聞く限り、幼少期からの素因もあったかもしれませんが、今の過酷なストレスが引き金になっています。今すぐ診断書をお子さんのことで契約している相談員さんに渡してください。あなたを助ける行政サービスはたくさんあります。まずはたった5分からでいいから自分を休ませてあげて下さい。」
22年間、「私がやらなきゃ」「完璧な母でいなきゃ」と握りしめていた拳を、
ようやく緩める時が来たのだと、涙が止まりませんでした・・・
私を救った降伏。行政ヘルパーに白旗を上げ、完璧を捨てた日第5子妊娠、そして育児ノイローゼついに折れた22年間の糸
【自分のために】助けてと言えた。行政ヘルパーがくれた心の解放
相談支援員さんと初めて向き合った日
私は自分の中に溜まっていた「汚くてどろどろした感情」をすべて吐き出しました。
「産んだら責任を持って育てるのは当たり前なのに、私ができないのはダメな母親だから」 「私のエゴで子供を増やしたのに、人任せにするなんてズルをしているんじゃないか」
脈絡もなく、自分を責める言葉を投げ続ける私に、相談員さんは絶句してこう言いました。
「お母さん……ほんっっまによくここまでがんばったなぁ……。もう、なんて言ってあげたらいいかわからへん……言葉がでないわ……」
それでも否定し続ける私に、彼女はさらに言葉を重ねてくれました。
「お母さん、きついこと言うようやけど、現実と理想の差があったところはあるかもしれへん。でもな、17歳っていう若さで産んで、親の愛情も分からない中で、右も左もわからず泣きながらやってきたことは、立派な『愛情の形』やで!」
「子供たちのためにここまでボロボロになって、折れてるのに立ち上がろうともがくのは、確実に親の愛情や。それも底なし沼みたいに深い愛情やと私は思う! だから、お母さんの理想に笑いながら近づけるよう、私に手伝わしてくれへんかな?」
その瞬間、私は子供のようにぐちゃぐちゃに泣き崩れました。ティッシュ箱を目の前に置かれ、鼻水も涙も垂れ流しで号泣……。相談員さんは、私が落ち着くまでずっと、優しく背中をさすり続けてくれました。
その時、ようやく私の口から出た言葉。
「助けてください……もう限界なんです……もう無理なんです……」
長男を産んでから22年。一度も言えなかった白旗を上げた瞬間でした。
【楽!!】に感じていい。孤独が消えたワンオペ後の景色
相談員さんはすぐに動いてくれました。
「よっしゃ、まかしとき! 手続きは私がやるから、お母さんはハンコ押すだけ!」と
そうして始まったのが、行政ヘルパーさんの利用でした。
正直、「サボっていると思われるかも」という不安もありました。
でも、相談員さんが私の性格を考慮して選んでくれたヘルパーさんは、
時に母親のように、時に友達のように接してくれる、温かい方ばかりでした。
月〜金の夕方、一番過酷だった【魔のワンオペ時間】に大人がもう一人いる。
それだけで、私の孤独は完全に消え去りました。
実際にヘルパーさんが来て、家事・育児援助をお願いし、ほんの5分でも自分の時間ができた時の率直な感想は……。
「……楽!!!!!www」
時間に追われず長女を見ていられる。
次女と三女の喧嘩に割って入る人手がある。
心の余裕ができると、不思議なことに、あんなに鉛のように重かった体重が軽くなったんじゃないかと思うほど、心も思考も格段に軽くなりました。
人に頼ることは、自分にとっても子供にとってもプラスしかない
人に頼るようになってから、私達の親子関係は劇的に良くなりました。
心の余裕ができたことで、子供ひとりひとりとじっくり向き合えるようになったからです。
「ここは手を抜いていいよ」
「そこは療育の先生に任せちゃおう」
ヘルパーさんや相談員さんからの客観的なアドバイスは、私を完璧主義の檻から連れ出してくれました。
療育の先生方とも専門的な相談ができるようになり、有益な情報がどんどん入ってくる。
自分を削って一人で頑張るよりも、行政や専門家の手を借りる。 それが今の私が出した答えです。
【人に頼ることは、自分にとっても子供にとってもプラスしかない】
今、私は身をもって、心の底からそう実感していますっ!!
2026年3月、4度目の帝王切開へ!22歳差の兄妹が見せてくれる未来
現在、私は妊娠8ヶ月!
2026年3月の4度目の手術を前に、実は今切迫早産で自宅で安静を強いられています。
子宮のリスクや高齢出産、再び特性を持つ子が生まれるかもしれないという不安。
リスクを挙げればキリがありません。でも、今の私は不思議なほど楽観的ですw
「なるようになる。どんな子が生まれてきても、みんなで手を取り合って、家族で支えあいながら、時には助けてもらいながらやっていける」
そう思えるのは、私の隣に、頼もしいパートナーたちがいるからです。
誰にもバレないように私を支えてくれた、パパの存在
これまであまり触れてきませんでしたが、再婚してからの5〜6年、私がここまで踏ん張ってこれたのは、紛れもなくパパのおかげです。
彼は昼も夜も働きに出て、私が育児や家事に専念できる環境を守ってくれました。週に一度の休みには必ずまとめ買いについてきてくれる、寡黙な影の支え(性格は寡黙ではないw)です。
正直に言えば、「もっと家事をしてほしい!」「育児に関わって!」と思うことも多々ありますww(本気で思うときもあるw)
でも、私が子供たちの絆を作るために必死に駆けずり回っているのを、
彼は何も言わずに見守り、私の空気を読んで立ち回ってくれていました
私がイライラして怒鳴り散らしていた時期
彼はそっと子供たちとバカなことをやって、怒りの矛先が自分に向くように仕向けてくれていた気がします。(本当に気のせいの可能性もありますがwww)
本人はただのバカなだけかもしれませんがww
誰にもバレないように、こっそりと私の精神状態を支えてくれていたのかもしれません。
パパが最終調整役としていてくれるからこそ、私は安心して私のままでいられるのだと、今ようやく感謝の気持ちが湧いています。
そして、そんなパパの影の努力に気づかせてくれたのも、私たち家族を支えてくださっている
【相談支援員さん・ヘルパーさん・療育の先生方】のご尽力に他ならないと思っています!
心に余裕ができたからこそ、
ようやく私は一人で戦っていたわけじゃなかったんだ
と周りの愛に気づくことができました。
22歳の長男は、想像を超えた【最強の兄バカ】
かつて反抗期や不登校で私を悩ませ、私がこの子のためにと必死に兄妹を作ろうともがいた長男。
22歳になった彼は今、私が想像もしていなかった姿になりましたww
とにかく、妹たちを溺愛しているんですwww
「うちの妹たちほど可愛い子、どこにもおらんな!」
「妹に近寄る男は、俺がちゃんと審査しなあかん」
大学の休みには保育園の送り迎えを自ら手伝い
魔のワンオペタイムには三姉妹にお兄ちゃんがべったりww
お兄ちゃんがご飯を食べさせてくれるおかげで、
私は22年越しに温かいご飯を子供と一緒に食べるという贅沢を味わっています。
そんなお兄ちゃんの背中を見て育っているせいか、三姉妹の長女も、お兄ちゃんがいない時はかいがいしく下の子たちの面倒を見ようとしてくれます。この優しさの連鎖こそが、
私が22年前に夢見た家族の姿でした。
完璧を捨てて迎える、5人目の麒麟
五行陰陽の守護神、最後に加わる麒麟 この子を迎える準備は、もう私一人でするものではありません。
パパがいて、長男がいて、三姉妹がいて。 そして、私たちの手を取ってくれる支援のプロの方々がいる。
【完璧な母親】という重荷をゴミ箱に捨てたからこそ、私はようやく、家族みんなで支え合う賑やかな未来を、心から信じられるようになりました。
おわりにちゃんとしたママを卒業して笑いませんか?
22年かかって私が見つけた答えは
白旗を上げることは、負けではなく、家族みんなで幸せになるためのスタートライン
だということです。
相談支援員さん、ヘルパーさん方、療育の先生方。
この出会いと助けに、心の底から感謝しています!
本当に、本当にありがとうございます!
そして、これからもこんなドタバタな我が家を、どうぞよろしくお願いします!
もし、かつての私のように、一人で歯を食いしばり、クローゼットで泣いているママがいたら伝えたい。
完璧じゃなくていい!家族で支えあって!時には外の力も借りて! あなたが笑っていることが、子供たちにとって一番の【愛情の形】なのですから。
一緒にちゃんとしたママを卒業して、今この瞬間を笑って過ごしませんか?

